昭和54年05月12日 朝の御理解
御理解 第89節
「此方の道は傘一本で開くことができる。」
ここのところ四十九節とか七十九節とか、今日は八十九節とかと言う一つで五十、もう一つで八十、もう一つで九十と言う何かひとつの節を感じますね。今日私はそれを感じました。ですからその節を乗り越えると言う事。只難儀な問題が、ま一つの節とするならば。そこを只おかげを頂いたと言うのではなくて、その節を乗り越える時に何かが分かった。言うなら悟れた。
その節を乗り越える時に力を得たと、言うものでなからなければ節から芽が出ると、言う様な繁盛には繋がらないと思うです。言うならその節がおかげの元、その節から折れると言った様な結果になってしまうのであっては、信心の進展が無いことになる。信心がやはり一段一段、節のあるたんびんに力を得て行く。節のあるたんびにそこから繁盛の芽が出る。と言う様なおかげを頂く。
言うならば確かに神様の間違いないお働きと、言うものをいよいよ実感させてもらうおかげ、節のたんべんにいよいよ、この神様は絶対と言えれる神様、こちらの成程度胸一つ又は心一つでおかげが頂ける、おかげを下さる神様と言うふうにですね、そのもう一つを加えるとおかげになる。徳になる力になる。と言う様なおかげを頂いていかなきゃいけん。だから何かあるたんびんに大きくなる。
何かがあるたんびんに繁盛のおかげに繋がっていくと言うね、ところがおかげは頂いてもそれが力になってない。繁盛になってない。それではいつまでたっても傘一本は生まれて来ない。傘一本で開く事が出来る道。この次の九十節には、この八十九節は、「此方の道は傘一本で開くことが出来る」と言う、まぁいと簡単なみ教えでございますけれども、傘一本を頂くまでがね、この九十節にあると。「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのは難しい。
道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものがむゆかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。例え一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆくいちには徳が受けられる」辛抱して行く間に様々な事がある。言うなら節がある。その節をいよいよ信心で乗り越え乗り越えしていく。そこに言うなら徳がうけられる、とあるのです。お互いもう一生信心をしておりますと、もう何十年になりますと言う人達が、その何十年の間には様々な所を通るはずなんです。
それはただもう本当に、神様にお願いしておかげ頂いたと、言うだけであっては、それが繁盛に繋がらない。難しい事があっても辛抱して行くうちに、徳が受けられる。と言う信心でなからなければならんと言う事です。そこからいわゆる徳そのものが傘一本なんです。言うならば神様を信ずる心が強くなるのです。信ずるから心が安らぐのです。その安らぎ一つでおかげが受けられると言うのです。いわゆる道が開けると言うのです。傘一本で開ける道。
昨日は熊本の植木教会の御大祭でした。ここからいつも永瀬先生と梶原先生といつも二人で行くんです。昨日はもう夕食をさせて頂きよりましたら、あの植木教会の総代さん方が三人でお礼に出て見えておりますとこう言う。えらい早かなと思うて。ところが先生方をお送りかたがた、三人の総代さん方がお礼に出て来ております。それも本当に念の入ったお礼のお届けでした。本当にそれこそもう私も一ぺん参りましたですけれども、もう教会とは名ばかりで、もう本当に雨が降れば漏る。
屋根は傾きとにかく第一、その流しと言う流し場と言うのがない。もう風呂であろうが勝手の方の流し水であろうが、もう言うなら垂れ流しのそれは、もうお広前へいってちょっとこう、もう座ろうごとなかごたる感じのお広前でした。信者は一人もいない。只息子さんが高校の先生をしておられるから、まぁそこから仕送りがあって、細々とやっておられると言う。老夫婦の先生方が亡くなられて、山田先生是非と言う事で参りましたが、もう言ってから何もかもおかげを頂かなければ出来ない。
山田先生とてもあんな状態の中ですからね。それこそ一人もいない信者の中から今日おかげを頂いて、段々おかげを頂いておる。もう総代さん方が申しておりましたが、本当に「合楽のおかげで、合楽のおかげで」と言うて、まぁ勿論あちらの親教会はどこか熊本の、少し離れた所に親教会があるから、その親先生と言う方がいつも見えてお祭りの時には、まぁ見えるらしいんです。
で最近では山田先生ちゃんと、お装束も出来て、山田先生が斎主を仕えてちゃんと、お祝詞なんかも見事に上げて、まぁ教会長としてのおかげを頂くだけではなくて、言うならば信者が助かって行っておる。しかもなら昨日私は総代さん達がお礼に出てきておる。総代さん達を見て何か頼もしい感じの総代さんばっかりである。確かに「傘一本で開ける道」ですね。だから山田先生の場合はそれまで教会に座らせてもらう、それ以前の言うなら信心がこの九十節のところを通っておるわけです。
様々のところを通った。だから様々なところを通るたんびんに、いよいよ神様の間違いなさを確信していった。その確信がおかげになると言う。言うならば安心そう言う傘一本の元で後はいうならば、あちらへ行きました初めからですね。あのう合楽にお礼に出てくると、言う様な事が出けんと言う様な事は一つもなかったです。お大祭たんびにやはりおかげを頂いております。然もお大祭を重ねるたんびに、やはり信者も増えていっておる。確かに傘一本で開かれる道。
昨日も研修の時に、うちの修行生の方に申しました事ですけれど。とにかく私は初めからね、立派な教会とか立派な布教所とかと言う事じゃなくて、もう畳六畳からでいいと私はね、そしていつもその畳六畳のお広前いっぱいで、表には立って待ってござる。と言う位ないっちょうおかげを頂かなきゃいけないよとね、そこから言うならば止むに止まれず、広がっていくと、いう様な繁盛のおかげを頂かなければいけないね。
それにはいうなら傘一本で開く事が出来るというね、傘一本の信心を本気で身につけなければいけないと、言った様な話しをした事でしたけれども、私共は永年信心させて頂いて様々な事がある。只そこを通ったと言うおかげを頂いてきたと、言うだけではなくてその都度都度に、力を頂いていくといよいよ神様の間違いなさを確信していくという信心。その信心からいうならば、その辛抱の間に徳が受けられると仰る。
お徳の受けられる様な辛抱、お徳の受けられる様な、言うならばおかげでなかなければいけない。今日は八十九節という所を頂いて、やはりここ二、三日続いておりますから節と言う事を感じます。だから節をどう言う風にして頂き抜くかと言う事なんです。そこで日頃しっかり信心の稽古をさせて頂いて言うなら、合楽理念に基ずく所の信心をさせて頂いておるなら、言うならそこに一切神愛と確信しながら、進めていく信心。これはなら合楽の場合を言うてもよい。
椛目で人が助かるようになるまでが、あれ程信心するのにどうしてあぁいう、次々と難儀な事がおきるだろうかと、言う所を通らせて頂いたけども、その都度都度がです言うならば、そう言う難儀な中にあって、私の心の中には喜びがあふれる程しのものが感じられたんです。人から見たら本当にあげん有り難かっちゃろかと言う位に内容が段々、その言うなら信心しとって、そう言う事が難儀な事が続く時に、いうなら傘一本が出来ておったわけね。後はそれこそ成程傘一本でひらける。
その頂くその時に言うならば力を受け取ったと言うことになるのじゃないでしょうか。それから数十年やっぱり起こる事は様々な事が起きて来た。けども合楽で何かがあるたんびんに、合楽は大きくなって来たと言う事実がある。皆さんの方は信心の上においてもこの傘一本がいただけれる日頃の信心。どんな場合であっても神様をいよいよ確信出来れる、言うなら神愛と分からせて頂けれる、信心をその土台として頂かなければならないと言う事になります。
昨日御本部から頂いて来ておった御本を読ませて頂きよりましたら、金光様の御信心はとにかく話を聞いて助かる。その話しが分かってそして段々おかげを頂いていくと言う、おかげでならにゃならんと言うことを大変強調されたお話しが出ておりましたけれどもね、それでは教会の繁盛はない。やはり教会の繁盛と言うのは、成程初めて参って来た者に力があるはずがない。信心が分かっとるはずもない。だからすぐ言う人には、教会長の信心の言うなら、力言うなら傘一本と言うものを持っておる。
教会長が教会に座っておかげを渡して上げる事が出来る。そのおかげの有り難さが信心になり、そしてだんだん理解申して聞かせと言う分かっていく信心。またここんところが分かっていかないと、本にあります様に金光教の信心は、程度の低いと言う事になっても仕方がない。おかげそして信心そして力であり、徳であり節があるたんびんにその節から芽がでる。そこから繁盛のおかげに繋がっていくと言う、おかげを頂かせてもらわなんらんと言う事になります。
だから合楽では沢山の先生方が修行させて頂いとりますが、その修行中に傘一本を頂いてね、合楽理念を基にして傘一本を頂かしてもろうて、一日も早う布教に出る様な願いを持たなければいけないと言う、話しをさせて頂いたんですけれどもね。只長く合楽に居りさえすれば良いと、言うことではない。いよいよ確かな傘一本を頂く事のためであります。これは教師だけの事じゃない、信者さんの場合でも只おかげを頂くからではない。お徳が身についていく。
これが傘一本であろうかと思われる様な信心を身につけていくから、信心が有り難い楽しいものになってくると言う信心を頂きたい。今日は皆さんいわゆる八十九節よ、言うね一つの節をね私共が力にしていかなきゃいけない。その節を只おかげを頂いて乗り越えさせて頂いたと言うだけではなくて、その節が徳を受けるのと力を受ける元になつていくと、言う事にならなきゃならんと、言う事を今日は聞いて頂きました。
どうぞ。
昨日、植木教会の総代さんの人が、そのう以前山田先生が信者時代に、ばりばり言うてケンカをした人だそうです。ところがそのう山田先生が植木に出てあると言うので、参らせて頂いたら、もう本当にうって違った先生になっておられるので、そこの総代にならせて頂いたと、言う面白い縁ですねと言うて話した事でしたけども、もうとにかくその一年なら一年後に会った時にはお互いがね、もうやっぱり素晴らしう変わっていく位な、変わり映えのない信者じゃやっぱりいけませんですね。